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フィーゴ、ベッカム、ジダン、ロナルドが君臨し、9度目のチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。世界のトッププレーヤーがクラブへ加入し、歴史に残る豪華なチームを構成。さらに、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムが拡張され、バルデベバスに新しいレアル・マドリード・シティを建設。
2001年5月26日
レアル・マドリードはアラベスを5-0で下し、28回目のリーグタイトルを獲得。試合の後、500.000人のファンはマドリードの街中を行列し、その多くがシベーレス広場へ。4シーズンぶりの制覇を祝った。6月9日、ジネディーヌ・ジダンがレアル・マドリードへ加入。
ルイス・フィーゴが2001年FIFA World Playerに輝き、デイビット・ベッカムが2位、ラウル・ゴンサレスが3位を受賞した。
2002年3月6日
レアル・マドリードは100周年を迎える。コパ・デル・レイ(国王杯)決勝戦がサンティアゴ・ベルナベウで開催され、デポルティーボ・ラ・コルーニャに1-2で敗れカップ戦制覇には至らなかったが、マドリディスモにとっては感動的な一日となる。
9度目のチャンピオンズリーグ優勝
欧州チャンピオンズリーグ再び制覇。 マドリディスモにとってはもはや伝説のスタジアム、グラスゴーのハンプデンパークで2度目、クラブ史上9度目の欧州チャンピオンに輝く。決勝ではラウルとジダンのゴールでドイツのバイヤー・レバークーゼンを1-2で破った。100周年を記念する年のシーズンを有終の美で飾ったことに加え、ジネディーヌ・ジダンが決めた華麗かつ印象的なゴールもあり、象徴的な決勝として歴史に残るだろう。レアル・マドリードにとって、特別な年に記すべき2つの思い出が残された。
そして8月、レアル・マドリードはサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムのトロフィールームに唯一欠けていた公式タイトル、UEFAスーパーカップをモナコで制覇。オランダのフェイノールトと戦った決勝戦では、2ゴールを決めたロベルト・カルロスの活躍によって、エル・ブランコが勝利を収めた。ファン・ホーイドンクが直接フリーキックで得点差を詰めたが、グティが追加点を決め、最終的に3-1で決着をつけた。1998年(対チェルシー)と2000年(対ガラタサライ)の決勝で敗れてタイトルを逃していたが、ようやく欧州スーパーカップを手に入れたのだった。
次の日の8月31日、ロナウドがレアル・マドリードに加入。ルイス・フィーゴ(2000年)、ジネディーヌ・ジダン(2001年)に続き、ロナウドがサンティアゴ・ベルナベウにやってきた世界的スター選手の3人目となった。
世界チャンピオンに輝く。レアル・マドリードは横浜で、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)3度目の優勝を果たした。2002年コパ・リベルタドーレスの優勝チーム、パラグアイのオリンピア・アスンシオンを2-0で下した。レアル・マドリードは創立100周年を記念する2002年を3大会制覇の快挙で締めくくることができた。
2003年7月、イングランド代表チームのキャプテン、デイビット・ベッカムが、フロレンティーノ・ペレス時代に獲得した4人目のスター選手となった。その数日後、レアル・マドリードは7度目のスペイン・スーパーカップを制覇。
バルデベバスのスポーツ都市
2004年5月12日、未来のレアル・マドリード・シティに最初の一石が置かれる行事が執り行われた。バルデベバス公園で行われたこの行事には、スポーツ関係者や政治家などが出席。数年に渡って取り組まれるマドリディスモの大事業のうち、最初の段階となるスポーツ施設が公式に発表された。その2週間後、レアル・マドリードは、ホセ・アントニオ・カマーチョを次の2シーズンの新監督として公式発表。
2004年7月11日、レアル・マドリードの会長にフロレンティーノ・ペレスが再選出された。会長選挙で絶対過半数の票を獲得(31.007名の会員が投票、有権者の47,56%)。2004年12月30日、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴが、レアル・マドリードの新監督として発表された。就任にあたり4つの前提として、規律、統一性、仕事、プロフェッショナリズムを表明。
2005年6月26日はレアル・マドリードの歴史上、忘れられない日曜日となった。バスケットボールチームが、ビトリアで行われたプレーオフの試合でTAUを下し(69-70)、ACBリーグのチャンピオンに輝いたのだ。狂喜の決勝戦だった。試合終了1分前、マドリードは得点において8ポイント下回っていたが、終了残すところ6秒で2点差まで追いつめた。その瞬間、ボールはエレロの手に渡った。キャプテンの彼は3ポイントシュートを決め、エル・ブランコに勝利と第29回のリーグタイトルをもたらしたのだった。
8月、レアル・マドリードはスペインサッカーで最も有望な若手選手、セルヒオ・ラモスを獲得。セビージャ出身のDF選手は、クラブと8シーズンに渡る契約にサインした。契約期間中、ポリヴァレント、アタッカー、攻撃、果敢などのクオリティーを発揮することが期待される。
2006年の初め、フロレンティーノ・ペレスが5年半務めたレアル・マドリードの会長職を辞任。リーグタイトル2回、チャンピオンズリーグタイトル、インターコンチネンタルカップ、スペインスーパーカップ2回、UEFAスーパーカップ…。フロレンティーノ・ペレス会長の就任期間、レアル・マドリードは見事な成績を残した。素晴らしいプレーと最高のサッカー選手と共に、数々のタイトルを獲得した期間だった。さらに、レアル・マドリードの膨らんだ負債を一掃したこと、サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムの改装、そしてバルデベバスのレアル・マドリード・シティの着工と、その貢献度はクラブの歴史に刻まれることだろう。
レアル・マドリード対スタッド・ランスの試合で、アルフレッド・ディ・ステファノ・スタジアムがオープンされた。レアル・マドリード名誉会長のアルフレッド・ディ・ステファノが主宰し、マドリディスタの勝利(6-1)に終わった。
会長、ラモン・カルデロン
会長選挙に勝ったラモン・カルデロンが、2006年7月3日、レアル・マドリードの会長に就任。就任式には理事会のメンバー全員と、会長を辞任するルイス・ゴメス・モンテハノ、そして名誉会長のアルフレッド・ディ・ステファノが出席した。会長は選挙キャンペーンで公約したとおり、スポーツディレクターのミヤトビッチに全権限を与えた。ミヤトビッチは、ごくわずかな期間に5人の新しい顔ぶれを引き入れた:エメルソン、ディアラ、カンナバーロ、ファン・ニステルローイ、レジェス。リーグタイトル獲得へ貢献することが期待される選手たちで、的を得た選択だった。ファン・ニステルローイは24ゴールで、ピチチに輝く。
フェレンツ・プスカシュ・ビーローが、長い闘病の末2006年11月17日の早朝に亡くなる。79歳だった。プスカシュは1927年4月2日、ブダペストに生まれ、1958年から1967年の間レアル・マドリードでプレーし、20世紀最高のストライカーとみなされている。レアル・マドリードでは、リーガ5回と欧州チャンピオンズカップで3回優勝している。レアル・マドリードの会長ラモン・カルデロンが葬式に出席。
その数日後、レアル・マドリードはゼップ・ブラッターへクラブの金バッジを授与する。授与の任を務めたのはクラブの名誉会長、アルフレッド・ディ・ステファノだった。”歴史上、偉大なサッカー選手”とみなされていることを認識したブラッターは、丁重に感謝の念を表明。その後会長が、レアル・マドリードの名誉会員証を授与した。
連なるタイトル
バルセロナとの試合で(3-3)、チームは変わった。その次の節ではベルナベウでNàsticと対戦し、クラブは“一丸となればやれる”というスローガンでチームとサポーターが一体化するためのキャンペーンを案出した。そしてその結果はすぐに表れた。最後の12節のうちレアル・マドリードは10勝をマークし、ラ・ロマレダという難しい地で引き分け、エル・サルディネーロでのラシン戦のみで敗北。セビージャ戦、エスパニョール戦、レクレアレィーボ・ウエルバ戦での巻き返しは目を見張るものがあった。
バスケットボール部門でシーズン最初のタイトルはULEB杯だった。レアル・マドリードに対抗できるようなチームはほとんどなく、対Unics Kazanとの準決勝戦では素晴らしい勝利を収め、決勝ではLietuvos Rytasと対決しタイトルを獲得した。
2007年6月17日、リーグ・チャンピオンに輝く。チーム、サポーター、クラブが一体となり、その成果が形をなした。対マジョルカ戦(3-1)の勝利でスペインサッカーを再び制覇し、20世紀最高のクラブであることを証明したのだった。
その一週間後、ACBリーグのチャンピオンに輝く。バルセロナでの忘れ難い決勝を後に、第30回バスケットボールリーグを制覇。これでジョアン・プラサの最初のシーズンで、2つ目のタイトル獲得となった。フェリペ・レジェスが決勝のMVPに選ばれた。
2年連続のリーガ制覇
2007/08シーズンは新監督にベルント・シュスター、ラインナップにはロッベン、エインセ、スナイデル、ドレンテ、サビオラ、メッツェルダーなど数々の新選手を導入し、新プロジェクトでスタートした。レアル・マドリードは第2節、ビジャレアルを相手に0-5の勝利を収め、シーズンを通して明け渡すことのなかった順位表トップの座を掴んだ。エル・ブランコは最多得点(84ゴール)、最少失点(36)のチームとしてシーズンを終了した。さらにチームは勝ち点85ポイントを獲得し、リーガが20チームで構成されるようになってからのプリメーラ・ディビシオンで、新記録を達成した。67ポイントで3位に終わった永遠のライバルFCバルセロナには、18ポイントの大差をつけた。
8度目のスペイン・スーパーカップ
リーガ2連覇を果たしたレアル・マドリードは、2008年夏、オーストリアのイルドニング、ロンドン、ボゴタ、フランクフルトでハードなプレシーズンを過ごした。そして前年には手にできなかったスペイン・スーパーカップ制覇を成し遂げた。メスタージャで行われた第1戦ではファン・ニステルローイが2ゴールを決めるも、3-2でバレンシアに軍配が上がった。サンティアゴ・ベルナベウで行われた第2戦ではファンの熱い応援とともに、シュスターが率いるチームはチャンピオンの精神を持っていることを示した。こうしてレアル・マドリードは巻き返しに成功し、8度目のスペインスーパーカップを手にした。
2008-09シーズン、レアル・マドリードは変革の時を迎えた。2008年12月9日、ベルント・シュスターが監督を解任され、セビージャで数々の栄光を掴んだ経験を持つファンデ・ラモスが後任を継いだ。2009年1月16日には、ラモン・カルデロンが会長の座をおり、それまで副会長を務めていたビセンテ・ボルーダが暫定的に会長に就任した。
2009年6月1日にフロレンティーノ・ペレスが会長就任
2009年6月1日付けでフロレンティーノ・ペレスが会長に就任。選挙過程で他に立候補者が不在となり、投票に至らずしての就任だった。これは主要メディアが立てていたアンケートによると、フロレンティーノのプロジェクトが大半の社会的支持を受けていたのが明らかだったためだろう。“夢を取り戻そう”というスローガンの下、フロレンティーノ・ペレス候補はバルセロナの支配を見てきたファンへ希望の光を灯すことに成功したのだった。クラブ史上最高の時期を経験した約6シーズンと同じ首脳陣にバックアップされ、夢のある新しいプロジェクトが始動した。
モウリーニョが監督へ就任
45年ぶりにインテル・ミラノにCLタイトルをもたらしたわずか9日後の2010年5月31日、ジョゼ・モウリーニョ(1963/1/26ポルトガル生まれ)はサンティアゴ・ベルナベウの記者会見場でレアル・マドリード監督就任会見を行った。また、ポルトガル人監督はスクデット、コッパ・イタリアを獲得し、インテルのクラブ史の中で初の三冠達成監督に。インテル就任1年目にもモウリーニョはスクデットとイタリアスーパーカップを獲得。
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